25セント


 ち合わせは10時。地下鉄はまだ来ない。後15分で連絡がとれなかったら困ったことになる。急いで地下鉄の駅に飛び込んだまでは良かったのだけれど、こういうときに限ってニューヨークの地下鉄は洒落にならないぐらい遅れる。

「仕方がないな。」
電話をかけるしかない。ポケットの中にはちょうど25セントが一枚だけ入っている。プラットフォームの公衆電話を探していると、ちょうど電話を使っている最中の黒人女性の真向かいにもう一台の電話機がある。急いで受話器をとって耳に当ててみる。ちゃんと発信音が聞こえる。大丈夫のようだ。ニューヨークの公衆電話は全然信用ならない代物で、いつもこうやって動作を確認しないとひどい目に遭う。以前何度か発信音を確認せずに硬貨を入れてしまったことがあって、そんなときはそのまま飲み込まれてしまうのだからたまらない。急いでいるからついつい確認もせずに硬貨を投入するわけだから、余計に腹が立つ。

 りあえずの動作確認はした。硬貨を入れてダイヤルする。
「25セントを入れてからかけ直してください。」
いきなり冷たい声が返ってきた
「???」

やられた!


よりによってこんなときにこのパターンが来るとは…。このタイプの場合、さらに頭に来る。大丈夫な振りをして実はお金を飲み込んでしまうだけなのだ。「クソッタレがぁ!」
 今回ばかりは私も切れた。虫の居所の悪いときに冗談ではすまされない。連絡しなければならないというのに、もう25セントは残っていないのだ。とりあえずここは何発か蹴りを入れて、受話器を叩き付けておく。壊れたところで一目でわかるほどに破壊されていなければ修理もしないような連中だ。どうせなら誰にでもわかるぐらいに破壊しておいたほうが間違って金を損する人も減る。一通り電話への復讐をすませると、いつもはモロに東洋人を馬鹿にしている黒人のにーちゃん達の目が違う。

「この東洋人はヤバイ。」


そうだぞ!今日の私はヤバイのだ!と、そこへ
「Excuse me?」
向かいで電話をしていた黒人女性である。
「そっちの電話は壊れているからこちらのをお使いなさい。」
「いやあ、もう25セントがないんですよ。」
「じゃあこの25セントをあげましょう。」
ひょいと手渡して自分はちょうどやってきた急行に乗っていく。かっこいいぞ。
こんなことがあるからこの街を好きになる人が多いのだろうか、日本ではもうこんなこと起こらなくなってしまったものなあとしばし感慨に耽った出来事であった。

 当にごく自然にそういう行動が出来る人が目立つ。もちろんどうしようもない奴らは多いけれど、日本ではそういうことが自然にできるということがない。列車のなかで席を譲るなんて事もこちらでは良く見かけるけれど、日本では滅多に見かけない。自分も困るということがこちらでは多いからかもしれない。困ったときはお互い様なんて言葉は困ったことのある者にしかわからない。そういえば、最近観た『コールド・フィーバー』のなかに出てくるアイルランドの人達は見ず知らずの日本人にも気楽に話しかけて、手助けをしたり面倒くさそうなことにもつきあっていた。日本はどこかにそういう余裕を忘れてきているのかもしれない。面倒をかけたりかけられたりすることの少ない社会は効率的で便利なのかもしれないが、そこから学ぶ機会を失うという意味では不幸なのかもしれない。地下鉄も公衆電話も当てにならないようなロクでもない街なのに、この街にひかれる人は多い。日本はその逆だというのはあまりかっこいいことではない。たったの25セントのことでも、ここでは何かはっとさせられることがある。外国にいるから自分自身が過敏になっているのかもしれないが、それを差し引いても、日本で30円そこらのことで感じるものとは違ったものがある。この程度のことでも、何か心が暖かくなるような瞬間がここにはある。


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