生きがいってなんだい?


 きがいについて書いてよってリクエストがあった。(この私にリクエストが来るなんて!)自殺の事について書いていたので、自殺と来ればやはり『生きがい』というテーマについても書かなくちゃバランスがとれないでしょうというわけだ。言われてみればもっともなんだが……。さて、考え始めると、すごく曖昧なテーマだからなかなかまとまらない。

 『生きがい』というものがこれだけあちこちで登場しているというのに、『生きがい』って一体どういうものなんだろうって事については、はっきりとした答えがない。まあ、ひらたく言ってしまえば、

「生きててよかった〜。」

とか、思える事が『生きがい』というものだって事になるんだろうけど。そういうものは人それぞれだし、その時々で同じ人でも答えは違ってくる。ただ、一つだけ『生きがい』に関しては共通点がある。それは、

「『生きがい』を探し求める人や、やたらと口にする人は何かを犠牲にして生きていると思っているらしい。」

ということだ。

 の部分、誤解しないでもらいたいのは『生きがい』を持っている人ではなくて、『生きがい』を探し求める人や、やたらと口にする人のことだってところ。生き生きしている人っていうのはもうその人の生き方がそのまま『生きがい』を反映しているもので、そういう人にとっての『生きがい』というのは、その人の理想とか、信念とか、そういうものである事が多い。『生きがい』がその人そのものになっている状態なので、『生きがい』が何かということをわざわざ考えたりする必要はあまりないようだ。

 ころが、何かの犠牲になっていると思っている人が『生きがい』を探し求めるとなると、これはもう大変なことになる。だって彼等は必死なんだもん。犠牲になったり我慢した分を『生きがい』で埋める事ができなかったら、彼等の人生は苦痛に満ちた地獄になってしまうわけだから。もう苦痛に溺れそうな彼等はワラにだってすがってしまう。すがられる"ワラ"の方はたまったものじゃないんだけどね。

 かくこの世の中には犠牲になっている人が多いらしい。犠牲者である本人が言うわけだからそりゃあ間違いないんだろうけど、犠牲になっちゃっているのは本人の責任でもあるというのは分かりきったことだから、同情はするけれど、どうなんだろうね、すがっている『生きがい』ってのが"ワラ"だったりすると、先々余計にみじめな目に遭うんだから、当然そういうかたちで語られる『生きがい』には賛成できるわけがない。で、そういうものを『生きがい』だと思っている人は案外沢山いる。

 近の代表的な『生きがい』の形とすがられてしまう"ワラ"といえば、これはもう母親と子供の関係。家庭と夫の犠牲になったと思い込んでいる母親が決まって子供に言うのが

「あなたは私の生きがいなのよ」

って言葉で、まあ、口にしなくても無言の圧力をかけていたりすることはよくあることだ。結構こんな理不尽なすがられ方をしておいて、たいていの子供ってそれに答えようとするんだね、それが成績ということになるとそりゃあ勉強するさ、でもだれでも得手不得手があるわけで、十分に答えられないとなるともう修羅場だよ。

「私はこんなに想っているのに!」

なんて母親に言われちゃって、その通りのような気がしているけれど、何か違うと思いながらそれこそ母親の犠牲にならなくちゃしょうがないという状態に追い込まれてしまうわけ。力のない子供にはそれ以外に選ぶことのできる道がないんだから、親孝行なんて伝家の宝刀を取り出してきたりするともうそいつで両手両足、グッサリと地面に縫つけられて血だらけって感じだよ。

 りでみているとかなり滑稽なんだけど。言ってみれば溺れてる奴が"ワラ"をつかんだら、沈むものだから"ワラ"を

「役たたず!」

なんて罵って暴行を加えているという…。だったら"ワラ"なんかつかむなよ。それ以前に溺れるようなことをするんじゃないって言うのがまあ、常識だよね。なのに、さんざんすがっておいて自分の思い通りにならないと、とたんに裏切られたなんて言いだすんだからどうしようもない。期待を裏切ったとか言って怒りだしちゃう。ばかばかしいよね。

 あ、ここでは母親を例にとったんだけど、他にも色々あるよね。恋人関係とか、仕事の関係とか、あちこちで何かにすがったり逃げ込むことを『生きがい』とすり替えている。

 っきの母親の例だと、甘い考えで結婚してみたら、こんなはずじゃなかったなんてもので、毎日が退屈でつまらないし、暇でしょうがないんだけど働きに出たところで自己実現を実感できるほど有能でもない。そこへ子供が生まれてきちゃうとこれがいきなり忙しくなるわけよ。で、忙しくて責任もかかってくるからもう「しめた!」とばかりに、子育てを自分の『生きがい』にしてしまうんだね。だけど、子供本人の人生そのものを自分の『生きがい』として私物化してもいいのかい?なんてことは考えるわけがない。まあ、人間は勝手だから。

 供の人生を私物化する前に好きになった夫をどうにかするなり、外で働いて喜ばれるだけの実力を手に入れるなり、自分自身の人生をちゃんと私物化しておかなくちゃいけないってことは言われてみれば当り前のことでしょ?でも、そういう根本を放っておいて、人の人生に手を出すわけだから、それはうまくいかないよ。仕事だってそう、勝手に私物化して自分の都合だけしか考えないような関わり方をしてはいけないし、何かの問題から逃げる場所にして、家庭や自分自身の面倒くさいことを仕事で紛らわすようなことをされたんじゃ、会社もクライアントもいい迷惑だね。こんなこと言えちゃう俺が失業してるなんておかしいよな、誰か俺とビジネスやらない?

 『生きがい』ってそんなにチンケなものじゃないはずだ。『生きがい』っていうのは今を生きている自分自身、それそのものなんじゃないの?自分の思う事、感じること、そういう全ての蓄積が今の自分自身として現われていて、だから、そこにいる今の自分自身こそが自分の最高傑作品なわけ。誰だって生まれて生きている以上はそういう壮大な作品創りをやっているわけよ。生きている甲斐なんてそれだけあれば十分以上でしょう?そういうわけで、『生きがい』ってのはつまり、生きているってこと、生きている君自身そのものってことだから、ちゃんと生きていればいいんだよ。自分がちゃんと生きているという状態であることが『生きがい』ってことさ。といっても

「自分がちゃんと生きているって〜のはどういう状態なんだ?」

という大問題がここで明らかになってしまうんで、今度はこいつを説き明かしていかなければならなくなるわけだけど。それについてはおいおい語るとして、ものすごく長くなってしまった。

 さて、反論、ある?


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