同級生の死


 20代半ばにして同級生の奴が死んだ。そんなに親しかったわけでもないのだが、高校は私立でそんなに人数も多くはなかったので、しっかり顔と名前は一致する。

 タイの大きな奴だった。俺の数倍は強そうな奴で、そんな奴が事故死でもなく、どうやら病死だったらしい。一番病死が似合わないような印象だったのに、分からないものだ。

 分もいつかは死ぬんだなと、今更のように思い知らされる。このごろになって自分の両親も年老いるということに気がついたばかりだ。ふと気がつくと両親の顔にしわが増え、だんだん白髪が目立つようになってきた。こんなになってまで親に心配をかけっぱなしというのはなんとも心苦しい。つい3年ほど前に祖母が亡くなり、その時の父親の落ち込みようは大変なものがあった。あまり表に見せるタイプの男ではないが、このときはさすがに気落ちしているのが電話の向こうからでも分かった。

 近に見知っている人間が死ぬという段になって初めて思い起こすのだから勝手なものだが、自分もいつかは死ぬただの人間なのだということには、やはり一種の恐怖感がつきまとう。何が怖いのだろう? まだ死にたくないというのとはちょっと違う。痛かったり苦しかったりするのは嫌だが、何かの事故に巻き込まれて一瞬で死んでしまったら、それは何となく納得できるような気がする。両親は非常に悲しむだろうが、なんとか両親が死んでしまったあとならそれも問題はない。妻だとか子供だとか愛人だとか恋人だとか、そういうものに関してはまあ、再婚なりなんなり色々あっても生きていけるものだし、ある程度の体力さえあれば大丈夫だろうと思うので、それも怖さの原因にはならない。

 の他に同級生の死といえば、大学の同級生で事故死した奴がいた。車が横転してその時サンルーフから頭を出していたそいつは意識不明の重体で、片目は飛び出てしまって摘出。彼女のかいがいしい看護のおかげもあってか、一度は意識を回復したのだが、やはり脳に障害があったようでそれから3か月ほどして死んだのだと風の便りに聞いた。その時は怖くもなんともなかった。

 ころが今回の話は怖いのだ、それは多分病死だったからだ。じわじわと自分のからだの自由を奪われて、体力がなくなって死んでいくというのは想像も出来ないぐらいの恐怖だ。想像しても想像しても足りないのではないだろうか?同じ立場に立ったら自分がどんなことを感じてどんなことを思うのか全く思い浮かばない。これは恐怖である。一瞬の痛みと共にバーンと散ってしまう事故なら何となく意識がなくなるまでの過程も想像できようというものを、昨日と今日でははっきり分からないが、1か月前と今日では今日の方が確実に死に近づいているのが分かる病気というのは恐ろしい。病死なんてまっぴらだ。

 かし、そう考えると自然死というものもあまり楽しい状態ではないかも知れない、なにしろ老化によって自由を奪われていく過程はほとんど病死と変わらないからだ。ある日を境に病気や老化がじわじわと自分を蝕んでいったりしたらなんて事を考えると、シャカの言った「生老病死」というのが実感をもって迫ってくる。

 いのや苦しいのは嫌だなあ。彼の病気が痛かったり苦しかったりしたのかはよく分からないけれど、半年前に友人が見舞いに行こうとしたら、面会できないほどだったという。彼が死んだという知らせを私が受け取ったことは別に彼にとっては嬉しくもなんともないだろうけれど、自分が死んだときに自分が死んだという知らせを受ける人は何人いるのだろうなんて事も考えると、やはりそれも怖い想像だったし、なんだか寂しい気もした。あんまり縁の深くない同級生ではあったが思いだせばガタイに似合わず笑顔の優しい奴だった。みんなこの事を知っているだろうか?うざったいと思うことの多かった同窓っていう関係性だけど、こういうことは耳に入らないとなんだか寂しい。

 並みな言葉でしか締めくくれないが、彼の冥福を祈りたい。多分明日からはまた彼のことや死ぬのが怖いなんて事を少しづつ忘れて生きて行くだろうけれど。


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